東区歴史ガイドボランティア連絡会


《豆知識》あんな話・こんな話


豆知識・あんな話、こんな話は、毎月行われる「さんぽ会」例会のレジュメとして配布される配布物の一項目をまとめて掲載しました。監修(会員・安部さん)

 

「有史以来初めての御参拝」 宗像大社宮司 葦津敬之~神社新報~

  平成291029日、天皇・皇后両陛下によるご参拝は有史以来初めての事であった。当社は『日本書紀』によれば、「汝神、宜しく道中に降居して、天孫を助け奉り、天孫に祭かれよ」とあり、この天照大神からの御神勅に従って祭祀が継承されてきた。

  両陛下には、第37回全国豊かな海づくり大会福岡大会に御台臨の後、午後250分御料車にて勅使館前に御着。ご休憩の後、勅使館より本殿に進まれ、御拝礼された。その後、勅使館「饗膳の間」にて沖ノ島の古代祭祀の奉献品を御覧。また世界文化遺産登録までの経緯をご説明申し上げ、特に世界遺産のキーワードとなったスピリチユアル、アニミズム、エコロジーに御関心を寄せられ、世界遺産登録の御祝意も賜った。奉献品については、陛下は精巧な技術に感嘆され、今日までの保存についての労いのお言葉も賜った。また、饗膳室に飾られた西日本菊花大会の盆栽菊も御鑑賞された。

  424分、御料車にて勅使館前御発、特別奉送に立った職員に対し、両陛下より親しくお言葉を賜った。境内の外では2万人を超える人々が沿道で国旗小籏を振る姿に、両陛下は御料車から各所で丁寧に応えられ、御心遣いの余韻はその後もさめることがなかった。                          (一部略・修正)

 門司港駅復元

竣工から105年、2019(平成31)年310日門司港駅がグランドオープンしました。

 1889(明治22)年に門司港が開港し、明治政府が設定した重要5品目(石炭・米・麦粉・硫黄)の特別輸出港として出発しました。同年、九州初の鉄道が博多を起点に走り、2年後には門司港まで延びて「門司駅」と名付けられましたが、その10年後の1914(大正3)年には連絡船桟橋に近い海側の現在地に「門司港駅」として移転新築されました。

その駅舎が1世紀近くたった今も、優雅なたたずまいを見せています。九州最古の駅舎は、木造2階建て・銅板葺きで、ネオルネサンス様式と呼ばれる左右対称の外観が印象的です。正面外観を門司の「門」の字になぞらえたともいわれています。駅構内には、昭和天皇が立ち寄られた際に御座所となった貴賓室をはじめ汽車旅時代の重厚な設備・調度がふんだんに並んでいます。
  駅としては日本で初めて国の重要文化財に指定されました。

 

東公園の今昔

 

東公園は、昔はその一帯が箱崎松原、千代松原と呼ばれた広大な松原の地でした。明治9年(1876)に、太政官布告に基づいて、松原の一部の約20ヘクタールの土地が福岡県内最初の公園地に指定されました。明治元年(1868)には、旧福岡藩主・黒田長知によって、招魂社が妙見・馬出の地に創建されています。当初は東松原公園の名称でしたが、明治33年(1900)県営東公園と改めるとともに懸の管理となりました。明治37年(1904)には元寇ゆかりの亀山上皇日蓮の巨大銅像が建立されました。また明治43年(1910)11月に川上音二郎によって現在の博多税務署付近に洋風劇場の博多座(初代)が建てられました。昭和8年(1933)には福岡市動物園が開園しましたが太平洋戦争の戦局悪化により、昭和19年(1944)に閉園しました。昭和56年(1981)には、公園側に県庁舎が移転しました。

 

官営「志免鉱業所」

 

志免鉱業所は、終戦まで旧海軍、戦後は旧運輸省や国鉄が所有する唯一の国営炭鉱として隆盛を誇りました。鉱業所の歴史は1888年(明治21年)、糟屋炭田の一角・須恵村(現・須恵町)の新原一帯が海軍予備炭山に指定されたことに始まります。

翌89年に開坑し、1906年(明治39年)には志免村(現・志免町)に第五抗が開かれ、1929年(昭和4年)に本部が置かれました。

竪抗櫓(たてこうやぐらの完成は1943年で、戦後、運輸省の直轄に移ってから本格稼働しましたが、その後エネルギー政策の転換で、志免鉱業所も役割を終えることになります。このことを、1964年(昭和39年)6月30日付の読売新聞夕刊に「国鉄本社常務理事をはじめ、地元関係者ら約百二十人が出席して閉山式をし、七十五年の歴史を閉じた。」と短い記事で伝えています。2019年で閉山から55年が経過しています。

 

西門橋(さいもんはし)物語

 

2018年(平成30年)9月28日付西日本新聞朝刊に「博多モノ語り(シリーズ59)」西門橋が掲載されています。橋は福岡市が1997年(平成9年)に着工し、2001年(平成13年)4月完成。デザインは「博多どんたくの源流といわれる博多松囃子がモチーフになっている」と記されています。これには、橋の近くにある「石堂橋」博多祇園山笠のデザインが施されていたのがきっかけでした。石堂橋は山笠期間中、「お汐井とり」のスタート地点です。故に、「石堂橋が山笠なら、西門橋は博多を代表するもう一つの伝統行事、博多松囃子にしては」とのようでした。博多松囃子は「福神」「恵比須(えびす)」「大黒」「稚児」の4流で構成し、5月の「博多どんたく港まつり」では、昔ながらの衣装を身にまとった一行が先陣を切って町を練り歩く。そこで、西門橋の四隅角柱に4流を陶板に描いている。橋の形も、福神が持つ「唐うちわ」をイメージし、歩道中央部を少し膨らませるなど「うちわ」を模した造りに、松囃子への地域の愛情、愛着を詰め込んだ橋を目指したといいます。

 

不平士族の反乱

 

維新150年、明治政府が進めた欧化政策と廃藩置県(1871年)徴兵令(1873年)廃刀令(1876年)など武士の特権を奪う諸改革に士族たちの不満が爆発しました。特に明治6年(1873年)の政変、征韓論を巡る政争によって、西郷隆盛や板垣退助らが下野したのです。九州に於いても不平士の反乱が頻発しました。1874年(明治7)、佐賀:佐賀の乱・熊本:神風連(しんぷうれん)の乱(1876年)・福岡:秋月の乱(1876年)・山口:萩の乱(1876年)・鹿児島:西南戦争(1877年明治10年)・福岡:福岡の変(1877年)が続発し、いずれも鎮圧されました。反乱鎮圧後、政府は積極的に士族授産を実施し、士族掌握に努めました。1878年(明治11)、紀尾井坂の変(大久保利通暗殺事件)を最後に終焉し、自由民権運動へと進みます。

 

学徒動員

 

県立香椎高等学校、創立80周年記念誌「常緑樹(ときわぎ)」に戦時体制下の香椎高等女学校の「学徒動員」が記載されています。現在より74年前となる、昭和19年(1944)4月7日、初めて「学徒動員壮行会」が行われました。女子学生も学業を捨てて軍需工場に出勤する。動員先は福寿鉄工所(箱崎松原)や昭和鉄工所(箱崎松原)や九州飛行機(香椎)であったとあります。この年の秋から、米軍爆撃機による本土空襲が本格化します。工場疎開も始まり、九州飛行機は香椎宮近くの山中や和白の山手に移っりました。やがては女学校の体育館や校舎までが分工場となっていきました。また、学校の講堂は陸軍の部隊(歩兵132連隊)によって使用されるようになり、学校らしい面影は無くなってしまった。と記されています。

南洲翁遺訓

 

西郷隆盛の実像を知るうえで重要な文献に南洲翁遺訓があります。

戊辰戦争で新政府軍は庄内藩を敗ったが、西郷は黒田清隆に寛大な処理をするように命じました。庄内藩の菅実秀(すげさねひでは黒田との会談で西郷のことを知り、江戸で西郷に会って感銘を受けたといいます。1870(明治3)年、庄内藩主酒井忠篤(ただずみ)や藩士70人は鹿児島に西郷を訪ねて教えを乞いました。その後、庄内士族の一部は鹿児島の私学校で学び、西南戦争で西郷軍に従って戦死した者もいたといいます。1889(明治22)年大日本帝国憲法発布の特赦で西郷が赦されると庄内の赤沢経言(あかざわつねこと)、三矢藤太郎らは1890(明治23)年、西郷の思想哲学をまとめた南洲翁遺訓を刊行しました。「国の政治にはわずかであっても私心を差し挟んではならない。どんなことがあっても心を公平に保ち、正しい道を歩み、賢明な人を選んで、その職務を忠実に行える人に政治を行わせることこそ神の心にかなうものである」とあり、さらに、現代の日本こそ、西郷のような実直な政治家の出現を国民は望んでいると偏しています。

 

西郷どんと僧・月照

 

薩摩藩の名君・島津斉彬は西郷隆盛を信頼しており、福井藩の松平慶永(よしなが)(春嶽)公に「私、家来多数あれども誰も間に合う者なし。西郷一人は薩国貴重の大宝なり。しかしながら彼は独立の気象あるがゆえに、彼を使う者、私ならではあるまじく・・・」逸事史補(いつじしほと語ったといいます。西郷は斉彬公に忠義を尽くして仕えていたが、京都で斉彬公の訃報を聞きました。西郷は殉死することも考えたが、成就院の隠居僧だった月照に「生きて斉彬公の遺志を継ぐことこそが真の忠義」とさとされ、思いとどまります。その月照は仏道一途の余念のない僧侶でしたが、時勢の激化につれて国事に心を傾け、「安政の大獄」では幕府の改革を企てたとして追われる身となり、西郷は薩摩で匿おうとしたが、斉彬公亡き後の薩摩藩は月照の藩外追放を決めました。西郷は絶望し、月照を抱えて錦江湾に入水しました。月照は帰らぬ人となったが、西郷は奇跡的蘇生しました。薩摩藩は幕府に西郷の死亡届けを出し、菊池源吾と変名させて奄美大島に潜居させました。このあと西郷には苦難に満ちた潜居生活が待ち受けています。

対馬藩田代領

 

6月22日付読売新聞夕刊にて、鳥栖の米 対馬で酒に、江戸期の「飛び地」交流というタイトルで掲載されました。江戸時代に対馬藩の飛び地「田代(たじろ)領」が置かれた、佐賀県鳥栖市の農家と、対馬市の酒蔵が連携して造った日本酒「兵介(ひょうすけ)」が評判を呼んでいるという記事です。この対馬藩田代領は江戸期の対馬藩の飛地名で筑前・筑後・肥前の3国に境を接する交通の要衝である、現、鳥栖市田代および隣接する三養基(みやき)郡基山町一帯にあたる。なお、対馬領主宗義智(よしとし)が文禄の役の勲功によって領有していた薩摩国出水郡1万石替え地として与えられた田代町に代官所が置かれていたため対馬藩田代領と称していた。

酒の名前は、1675(延宝3)年より11年間任官した田代領副代官・賀島兵介にちなんだ。賀島は、飢餓に苦しむ領民に米を分け与え、堤防や河川の改修に取り組んだといわれている。鳥栖市の休耕田などを活用して酒米の山田錦を栽培、精米し、対馬に送り、河内酒造で仕込んで、醸造しました。

 
2018.05

戊辰戦争の福岡藩

 

福岡藩の戊辰戦争への出兵人員は陪臣・傭兵・軍夫を合わせて2,370名3隊に別れて行動しています一隊は矢野安太夫・郡右馬之充の部隊です。慶応4年2月15日に東征大総督有栖川宮熾仁親王に従い京都を進発し、東海道を下り江戸に入り上野の彰義隊掃討戦に加わっています。その後、江戸周辺の船橋・行徳・飯能において旧幕府軍掃討を展開しました。かつ、大野忠右衛門以下、131人の一隊は、矢野安太夫・郡右馬之充隊より先きに、薩長兵とともに奥羽鎮撫総督九条道隆を頂き、一旦、仙台へと入ります。秋田へと移動し、秋田藩兵とともに、庄内藩討伐戦にかかりますが、苦戦が続いため、藩は、飯田孫左衛門を将として、296人を増援します。

最後の一隊は小川専左衛門、根本源五衛門を隊長とする454人です。同隊は、奥羽列藩同盟の盟主・仙台藩掃討のために江戸で編成され、相馬中村藩、仙台藩との激戦を展開しました。明治へと改元された9月から10月にかけて、奥羽列諸藩が降伏し、各地での戦闘は終焉をみます。

翌2年、秋田に駐屯した部隊は黒崎まで海路をとり、その後、陸路で帰着、仙台に駐屯していた部隊は、湊町(現福岡市中央区港町)に上陸し帰着しました。戊辰戦争で福岡藩が出した戦死者は66名、負傷者は84名でした。

 

野村望東尼の島抜け

 

1865(慶応元)9月「乙丑の獄」、筑前勤王党は粛清されました。11月15日には望東尼も志士たちを匿ったり、助けたりしたという理由で、「姫島に流刑」とされました。約1年という月日を気丈に過ごしており、高杉晋作は小倉戦争の海軍総督として、幕長戦争中ですが、福岡の脱藩藩士・籐四郎から望東尼が流刑にあっていることを聞き、高杉は救出作戦を計画し、救出チームを仕立てます。築前藩士:籐四郎・小藤四郎、長州藩士:泉美津蔵、対馬藩士:多田壮蔵・吉野応四郎、博多商人:権藤幸助の6人です。6人が佐賀県唐津の浜崎を目指して、白石邸から船で向かいました。浜崎に1週間ぐらい滞在して、対岸の姫島の様子を探り、綿密な計画のもとに「島抜け」が実施されました。それは慶応2年9月15日のことでした。島から一旦、もうひとつの流刑地宗像沖の大島に寄り、玄海灘を進み馬関の白石邸に到着しました。生きて再会した高杉と望東尼でしたが、望東尼は死ぬまで高杉の面倒をみます。1867(慶応3)4月14日、高杉晋作享年29歳で亡くなりました。望東尼は防府に移り、長州藩主から謝意を受け、高杉の後を追うように、同年慶応3年11月6日にその生涯を終えました。高杉、望東尼は没後150年になります。

幕末福岡藩の見聞

1864(元治元)年11月中旬薩摩藩大島三右衛門(西郷吉之助の変名)が来福。月形洗蔵・建部武彦が応接して薩長和解を説き、大島(西郷)も了解しました。また、同年11月19日、第11代福岡藩主黒田長溥は箱崎の別業(箱崎御茶屋)で大島(西郷)を饗応し、月形洗蔵・建部武彦等も接伴する。同年12月には、月形洗蔵、大島(西郷)等と馬関(下関)の茶亭大坂屋にて会談をする。高杉晋作も来会。この日、薩長同盟の端緒が開かれました。1866(慶応2)年、坂本龍馬の斡旋で薩長同盟が成り倒幕への最終局面を迎えていきました(新訂黒田家譜第7巻)。

なお、宮浦(福岡市西区)の商人津上悦五郎の見聞略記(高田茂廣校註)によると、「福岡牢屋の町の黒門、赤坂門その他五か所に番所が建てられ、物騒な時節になったことや、イギリス軍艦福岡入津に際して藩主対談予定の箱崎御茶屋を改修、残の島(能古島)で異国人共が鹿狩りを鉄砲で鹿60疋を撃ち留めたこと、異国人の残の島沖での大砲調練を藩主長溥公が洋装軍服で海上から観閲したこと、同じく藩主以下、「緋羅紗のぼたん付」の上着に「黒羅紗のばっち」をはいたイギリス軍300人余の調練を箱崎御茶屋から観覧したこと」など、明治維新目前の福博市井の見聞を伝えています。

 

福岡六丁筋

 

福岡六丁筋を紹介します。福岡六丁筋は現在の昭和通りで、博多から中島西の橋を渡って福岡の入り口である枡形門の北門を抜け簀子(すのこ)町大工町本町呉服町上名島町中名島町の六町を抜ける道筋にあたり、福岡のメインストリートとして整備されました。名島町というのは、黒田家が名島から移ったときに名島の商人を連れてきた町です。「シモ(下)」というのは商人にとっては景気が悪く、明治以降は上名島町、下名島町と言っていましたが、江戸時代には下名島町はありませんでした。中名島町は中ノ番と言っていました。この六丁筋は商人の町で、大工町のところに、現在の岩田屋の前身の呉服商岩田屋がありました。1725(享保10)には、昭和通りから大名・天神・今泉・薬院に至る福岡市のど真ん中が焼ける大火が起きました。その後、藩は景観整備に関する御触れをだしました。福岡六丁筋の町家が粗末になって見苦しいので、新規の家作をする場合は瓦葺と白壁にするように、新築には間数一間につき銀二百目、改築は間数一間につき銀百目を無利子・五年賦で貸し出す。というものでしたが、今後、博多津中での呉服商売は禁じるので、六丁筋に呉服所の出店を願い出よというものでした。 

能古島ものがたり

 

 

能古島には南北に区切る、東西約2キロメートルの石垣がありました。島に棲む獣から作物を守る「鹿垣(ししがき・しかがき)」です。その先端は、鹿が海岸をつたって入り込まないよう海まで延びていました。今でも島の中央部でその痕跡を見ることができます。

鹿垣のはじまりは江戸時代です。藩主の猟場が島に設けられると、島民といえども勝手に猟をすることができなくなりました。すると猪や鹿が増えて農作物の被害が大きくなります。そこで長い石垣を築き、里に下りてこないように防いだのです。完成したのは天保7年(1836)でした。藩主の猟場であることから、能古島は狩猟の島として著名でした。寛政10年(1798)には秋月藩主の鹿狩りが行われ、180頭近い鹿を狩ったと記録に残されています。幕末になると外国人たちが狩猟に訪れるようにもなりました。廃藩置県によって藩の狩猟場は県庁が管理していました。この時の県令・有栖川宮熾仁親王は直後の10月に県庁の役人を連れて、狩猟のために能古島を訪れます。成果は26頭であったと記録に残っています。しかし、この後、能古島の鹿は数年間で急速にいなくなってしまいました。大正年間になると屋久島から鹿が移入されました。

 

大政奉還

 

大政奉還とは、今から、150年前の慶応3年(1867)10月14日に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許した政治的事件です。江戸時代、徳川将軍は日本の統治者として君臨していたが、形式的には朝廷より将軍宣下があり、幕府が政治の大権を天皇から預かっているという大政委任が受け入れられていました。ところが幕末、朝廷が自立的な政治勢力として浮上し、大政委任の再確認を求めるようになったのです。そこで徳川慶喜による大政奉還は、それまでの朝幕の交渉によって再確認された「大政」を朝廷に返上するもので、江戸幕府の終焉を象徴する歴史的事件でありました。しかし、この時点で慶喜は征夷大将軍職を辞職しておらず、引き続き諸藩への軍事指揮権を有していました。慶喜は10月24日に将軍職辞職も朝廷に申し出るが辞職が勅許され、幕府の廃止が公式に宣言されるのは12月9日の「王政復古の大号令」においてであります。大政奉還の目的は、内戦を避けて幕府独裁制を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる公儀政体体制を樹立することにあったようですが。 

太政官日誌

 

明治新政府と旧幕府が慶応4年・明治元年(1868)から約1年半にわたって戦った戊辰戦争で、新政府が積極的な情報・宣伝を展開し、印刷して諸藩などに配布した日誌太政官日誌があり、新政府の法令や人事などを掲載した現在の官報に相当するものです。新政府内で編集し、民間業者が木版印刷で作成しています。諸藩に配布されるだけでなく、書店で一般にも販売されています。誌の中で戦争中に新政府軍側の諸藩が提出して日誌に掲載された戦闘に関する届書(報告書)が注目されます。届書には、旧幕府側諸藩の降伏状況、北海道・函館で抗戦した榎本武揚の動向など、戦局に関わる情報から、味方の死傷者の情報、小銃や金銭など戦利品の明細、討ち取った人数などが詳細に書かれています。

さらに、1868年9月の会津藩降伏について「肥後父子降伏略図」と題して、前会津藩主・松平肥後守容保父子や家臣が、降伏の際に新政府軍の前でどう並んでいたかを示す配置図まで描かれています。

日誌は、68年の出来事だけで178号分も刊行され、膨大な届書が掲載されました。このことを「新政府軍が優位に戦闘を進めている様子を宣伝することで、日和見的な諸藩を味方につけ、民衆に新しい支配者が新政府だと理解させる必要があった。」と東京大学の箱石大准教授は見ています。 

オランダ人が見た「大坂の陣」

 

徳川方が豊臣家を滅ぼし、日本史の転換点となった大坂の陣(1614~

15年)前後の状況を当時の大阪、京都などに滞在していたオランダ東インド会社の商務員による文書約500点の概要が、国際日本文化研究センター(日文研)とオランダ・ライデン大の共同調査によって確認された。と読売新聞に掲載されました。(平成28年9月17日付)

文書は戦乱を克明に描く一方徳川家康に高額な贈り物をする「政界工作」の様子が垣間見えます。同社は1602年設立の国策企業で、バタビア(現ジャカルタ)を根拠地にアジア貿易を行っています。オランダは1609年に江戸幕府から貿易の許可を受けて長崎の平戸に商館を開設。商務員らは大名や商人と接触して交易を進め、情報収集も担って公的な記録を書いたとみられます。このうち、1615年6月11日付のワウテルスという同社商務員が大坂城陥落から1週間後、平戸オランダ商館長に宛てた書簡は、大阪夏の陣の戦況を生々しく伝えています。文書の特徴は、「大坂の陣」の戦況を時系列でたどり、幾つかの目を引く事実も見つかっています。「家康に寝返った大名が城に火を放つ」、「寝返った大名が秀頼に城から落とされ死んだ」などと記されています。 

維新150年 薩長同盟

 

禁門の変と下関戦争に敗れ、朝敵となって孤立した長州藩に手を差し伸べたのは、薩摩藩でした。薩長和解の機運が高まり、土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎、土方(ひじ)久元、筑前福岡の月形洗蔵らの仲介や奔走があって実現しました。慶応2年(1866)に結ばれた薩長同盟の内容を早い段階で諸藩が知り、鳥取県立博物館所蔵文書が見つかりました。文書は、鳥取藩の京都留守居役が国元への情報報告をまとめた亰坂書通写けいはんしょつううつし』の一部です。同盟締結と寺田屋事件から約2週間後、慶応2年の2月7日付の報告で、京都・伏見奉行所による寺田屋襲撃後に坂本龍馬がもっていた書面で、同盟の内容が書かれていたというものです。「長州藩が処分を決して受け入れず、兵を率いて上京し、朝敵扱いからの回復を嘆願する際には、薩摩藩が会津藩を京都から追い払うことに協力するという返事など」が記されていました。一方、寺田屋事件を巡っては、伏見奉行所の報告書の写し「高知県立坂本龍馬記念館」が所蔵し、写しには、龍馬がのこした血染めの羽織や書面などを押収したとあるが、書面自体は見っかっておらず、内容も分かっていませんでした。

 

犬鳴御別館

 

1854(安政元)年加藤司書は藩主長溥公に製鉄事業を任され、外部への見つかり難く、深山幽谷であり木炭の生産地であった犬鳴峠に近い犬鳴村(現在の宮若市犬鳴)を選び、犬鳴日原鉄山(犬鳴製鉄所)を開業させました。これは木炭を別の場所へ運ぶより、砂鉄を犬鳴谷に運んだ方が効率良いとされたためでした。1865(慶応元)年、有事の際に福岡藩主が避難する場所(逃げ城)として犬鳴御別館を建てさせました。御別館の建設途上で「犬鳴御別館事件」が起きました。佐幕派は「加藤司書たちが、ときの藩主を幽閉し、藩主の子を藩主に据え、勤王派中心の黒田藩にしようと企んでいる」と藩主に進言したのでした。そうして、「乙丑の獄」(慶応元年)が発生しました。御別館は中止することなく、今後の外国との脅威に備えるために建設を継続しました。一年ほどで完成しましたが「犬鳴御別館」と言う名を「犬鳴御茶屋」という殿様の休息所という形で完成しました。しかし藩主長知公が1869(明治2)に立ち寄ったという記録はありますが、その後、荒廃が進み、1884(明治17)の大風雨により倒壊し、終焉しています。尚、1994(平成6)年に建設された犬鳴ダムのダム湖には「司書の湖」という愛称が付けられています。