東区歴史ガイドボランティア連絡会
安部通信

「さんぽ会」の”安部光征さん”からいただいた沢山の歴史資料を、私だけで目を通すには何かもったいない気がして皆様とご一緒に勉強していきたいと思い掲載し、公開することとしました。

 安部さんは、香椎駅前1丁目に居住しており、歴史のいろいろな事柄に研鑽を積まれ活躍されておられます。

 また、「さんぽ会」では名島、多々良グループでガイドボランティアとして皆様をご案内しておられます。
 
 

元号誤報事件

 

大正天皇42歳の時、皇太子裕仁(ひろひと)の摂政任命の勅語宣布(大正10年(1921)11月25日)され、同時に、宮内省は「天皇陛下御容体書」が公表されました。以後、大正天皇は大正15年(1926)8月10日、葉山御用邸で療養につとめられますが、症状は悪化の一途を辿ります。「容体発表」は12月に入ると日に2,3回と増えていきました。12月16日、いよいよ危ないというので皇太子裕仁殿下・良子(ながこ)妃も葉山に行啓し、最悪のケースに備えました。

当時、葉山には東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)だけで30名近い記者が常駐していました。民家一軒借り切り、電話を急設しました。民家を借りたのは各社ともみなそうでした。天皇崩御を間近に感じとって報道合戦は次第に加熱していきました。

崩御は大正15年12月25日午前1時25分です。正式発表は午前2時40分でした。東京日日新聞は崩御からわずか2時間半後の午前4時ごろ、新元号は「光文に決定するであろう」という号外を出しました。」「年号の出ているところは他にありません。」社内の空気は「光文」大スクープを信じ、号外発行に満足していました。そのうち葉山のほうから電話が入り、枢密院本会議が散会したという連絡で、同時に元号は「昭和」と決まったという報せでした。いま手元に、大正天皇崩御発表直後に刷られた東京日日新聞号外と朝刊があります。二つとも「元号は光文」と報じています。さらに昼近くに配られた号外(第二号外)もあります。これは「昭和」になっています。

第一号外は「聖上(せいじょう)崩御」の大見出しのあと

新帝践祚(せんそ

  御用邸御座所において

天皇陛下崩御あらせられたるにつき皇室典範第十条、天皇崩ずる時は皇嗣(こうし)即ち践祚し祖宗の神器を承()く

の明文により皇嗣たる皇太子裕仁親王殿下には同時刻を以て直ちに葉山御用邸なる御座所に於て践祚あらせられ祖宗伝承の神器を承け皇位を継承あらせられた

元号は「光文」

枢密院に御諮詢(しじゅん

元号制定に関しては枢密院に御諮詢あり同院において慎重審議の結果「光文」「大治」「弘文」等の諸案中左の如く決定するであろう

    「光文」

 

 

天皇の影法師  中公文庫

猪瀬 直樹  著者

 

付録 元号誤報事件の真相

昭和31年(1956)9月17日(月)NHKの人気番組「私の秘密」に73歳の老人の秘密として、「大正天皇崩御の際、次代の年号は私の選んだ光文に決まりましたが、事前に新聞に発表されたため昭和に変更されました。」と言う証言が放映された。

中島利一郎の証言、早稲田の史学科を出て、中野正剛、緒方竹虎氏などとも懇意だった人。彼は黒田侯爵家の藩史編纂所に勤めていた。その関係から黒田藩出身の長老金子堅太郎子爵(枢密顧問官、のち伯爵)と懇意だった。金子子爵が宮内省の臨時帝室編修局長官となったことから、臨時帝室編修局の仕事もするようになった。大正15年12月、黒田邸から呼び出しがあり、黒田長成侯爵はじめ金子子爵など二、三の枢密顧問官がいて、「これからのことはいっさい秘密だから、絶対口外してはならない」と念を押され、切り出されたのが新元号のことでした。枢密院では非公式に元号選定委員会を作って秘密裏の会合をもっていたが、委員長は黒田侯で、金子や江木氏らが委員というわけです。中島は彼らに何とか適当な言葉がないだろうかと問われました。私の第一に参考にしたのは、大編纂佩文韻府(はいぶんいんぷでありました。これは中国歴代の古典、名著のうちにある熟語成句をことがとく網羅している本でした。そして光文にぶつかりました。そのほかにも二つ三と選びだして、報告しました。みな光文のほうがよいといい、「これにしよう」といいあいました。それから幾日も経たずに、


2013.11.09受信

香椎線 往年の石炭運搬線

香椎線は、糟屋炭田や筑豊炭田で産出された石炭を西戸崎港に搬出し、船舶で西日本各地に輸送するための鉄道として計画され、明治29年(1896)1月、東京や福岡などの企業家らが、運営母体となる博多湾鉄道を構想しました。筆頭株主、岩谷松平(「天狗煙草」で財を成した薩摩出身の煙草王)。社長は佐藤暢(薩摩出身)。糟屋郡志賀村西戸崎地区に石炭の積出港を建設し、明治33年(1900)2月に博多湾鉄道を創立しました。明治38年(1905)に西戸崎~宇美間の全線が開業します。その後、海軍が管轄する志免炭鉱に延びる貨物支線の建設を進め、大正4年(1915)までに酒殿から志免・旅石(糟屋郡須惠町)への支線を開通させ、軍用運炭路線としての性格を強めていきました。大正9年(1920)、海運業に参入し、社名を博多湾鉄道汽船に変更します。昭和初期には国有化がなされますが、いわゆる昭和4年(1929)、五大私鉄疑獄事件の影響で頓挫します。その後、鉄道会社乱立の弊害解消を目的とした陸上交通事業調整法により昭和17年(1942)に九州電気軌道に吸収合併されて西日本鉄道と改称されました。しかし、旧・博多湾鉄道汽船の鉄道路線は、運炭を目的とした軍事上の重要路線だったため昭和19年(1944)の戦時買収で国有化され、香椎線となりました。戦後も運炭路線という位置付けはかわりませんが、昭和30年代のエネルギー革命により炭鉱の閉鎖が相次ぎ、貨物輸送が衰退し、貨物支線も昭和60年(1985)までに全廃され、香椎線は旅客列車のみが運行されるようになりました。
ところで、特急「かもめ」が香椎線を走ったことがあるのを知っていますか。昭和28年(1953)3月から昭和32年(1957)6月まで、京都駅~博多駅で運転開始した特急「かもめ」で、客車は座席が一方向固定で、そのまま折返すと後ろ向きとなるのでそのためデルタ線(鉄道トライアングル)を形成していた運転方式を利用したものでした。

2013/11/02受信

小早川隆景と水軍

天正15年(1587)、豊臣秀吉から筑前国名島に転封された隆景は浦宗勝を小早川水軍の統括責任者で指揮下におき、村上水軍を味方に引き入れ、厳島の戦い(天文24年(1555))に勝利をもたらした。村上水軍は瀬戸内海の三つの島(能島(のしま)・因島(いんのしま)・来島(くるしま))を根拠地にして中世から戦国期にかけて活躍した海上武士団で、海賊衆とも呼ばれた。村上水軍の統領・村上大和守武吉(たけよし)はその宗家の能島村上氏の大将である。秀吉は天下統一のため瀬戸内海の制海権を握ろうとし、村上の力が是非とも必要で、武吉にあらゆる誘惑の手を差し延べた。来島の村上は秀吉の許に走ったが、能島と因島の村上は毛利氏との長年の友誼(ゆうぎ)を重んじて、最後まで秀吉に抵抗した。そのために天下をとってからも秀吉は武吉の所業を憎んで、徹底的に「海上賊船禁止令」に抵触したと罪をきせ、彼を追い詰めた。小早川隆景は武吉を秀吉の追究からかばいにかばい、処刑だけは免れるが、秀吉は赤間関から上方にかけて武吉を居らせてはならぬと隆景に厳命し、瀬戸内海より追放された。隆景は筑前国名島にて名島城(海城)を築くが、武吉を残すことが心配で彼を九州に伴なった(『萩藩閥閲録』)。だが九州の何処に移ったかは不明であった。
武吉が36歳の時(永禄4年)、毛利と大友の門司城の争奪戦で、武吉は毛利の命により、蓑島の島陰に屯ろしていた大友水軍を撃破したという事実がある(『萩藩閥閲録』)。能島の町の資料館に保管する古文書『村上水軍文書調査書』の中に、山口宗永(筑前名島城主小早川秀秋の家老・山口玄蕃)の書状があり、それに「武吉と長男掃部頭元吉は筑前国怡土郡かむり(加布里)村にあった玄蕃の屋敷に居た」ことが明確に書かれていた。

※昭和60年(1985)2月から7ヶ月間、朝日新聞の朝刊に城山三郎氏の『秀吉と武吉』という歴史小説が連載された。

福岡県地方史研究連絡協議会会報1994・3・26
「地方史に想う」    村谷正隆

名島小早川領直轄領(蔵入り)

朝鮮国に出陣していた小早川秀秋が慶長3年(1598)1月に帰国する。帰国後、秀秋は直ちに越前国に移される(「転封」)が、一説では蔚山(ウルサン)城での戦いの際の指揮官としての軽はずみな行動が原因とされている。しかし、実際には蔚山城での攻防戦以前に秀吉から帰国命令が出ているので、すでに早い段階で小早川秀秋領を豊臣政権が直接管理する、つまり直轄領(蔵入り)とする構想が浮上していたと見ることもできる。
ともかく、小早川秀秋の越前転封の結果、筑前一国・筑後四郡・肥前二郡は豊臣政権の直接管理下に置かれることになり、同年5月に石田三成が直轄領の代官に任命される。さらに、8月にはそのうち筑前九郡について、浅野長政を代官とする旨の秀吉の朱印状が発給されており、旧秀秋領は豊臣直轄領として石田三成および浅野長政によって管理され、兵糧補給の継続のため、前年に派遣されていた山中長俊の活動を最大限援助することになった。
官兵衛と福岡のゆかり
九州・福岡藩52万石の礎を築き、秀吉を天下人へと登らせた軍師・黒田官兵衛孝高。黒田家と福岡との関わりは、1600年関ヶ原合戦の戦功により黒田長政が福岡藩主となってから始まったと思われがちだが、官兵衛と福岡のつながりは、その13年前に始まっていた。1587年5月、薩摩の島津氏を下し九州を平定した豊臣秀吉は、官兵衛らに荒廃した博多の町の復興を命じる。官兵衛は前年より秀吉軍の先発隊として九州に来ており、1587年正月には、後に名島城主となる小早川隆景と連名で博多での軍勢や無法者の略奪を禁じ、まちの安全・安心を保障する禁制(法度)を出した。また、官兵衛は戦乱で荒廃した博多の復興事業の柱となる「博多町割り」、いわば都市計画を立案する。町は南北に築かれ、後に「博多塀」と呼ばれることになる瓦礫を素材に利用した塀を作り、町の端に寺を集めて防塁にするなど、巧みな町づくり今も残る。
2013.10.17受信

香椎宮本殿を再建した藩主黒田長順

香椎宮御本殿は、聖武天皇の神亀元年(724)の創建にして、建築様式は香椎造りであって、日本唯一の様式で重要文化財(大正11年(1922))である。現在の御本殿は享和元年(1801)、筑前藩主黒田長順(ながより)の遵式縮小の再建であり、周囲は透塀で囲われている。   (『香椎宮略誌』)
その筑前藩主黒田長順は寛政7年(1795)2月6日に九代藩主斉隆(なりたか)の長男として福岡城に生まれたとされているが、斉隆が急死(同年10月6日)したため、斉隆の側室が生んだ女子を秋月藩主黒田長舒(ながのぶ)の第四子と取り替えて跡継ぎとしたという説もある。生後わずか9カ月にして第十代藩主となり、文化5年(1808)に14歳で元服して名乗りを長順(ながより)から斉清(なりきよ)と改めた。藩政は譜代の家老が合議で行い、長崎警備については秋月藩主黒田長舒が勤めた。
この時代、文化元年(1804)ロシア帝国の使節としてニコライ・レザノフが長崎に来航し、文化5年(1808)8月、長崎港にイギリス海軍の軍艦が侵入するフェートン号事件が発生した。
幼少の頃より斉清は、学問を好み、特に鳥類と本草などの博物学の研究に没頭した。また、斉清は幕府医館で有名な本草家でもある栗本瑞見(ずいけん)、桂川甫賢(ほけん)などと交際し、自らの屋敷で研究会を開き、本草家たちとの研究交流のなかから、大きな本草学の研究組織である赭鞭会(しゃべんかい)を育てていった。赭鞭会は、「神農が赭(あか)い鞭(むち)で以って草木を薙(なぎ)倒し百草(ひゃくそう、多くの草)を嘗(な)め薬草を定めた」という中国の故事にちなみ名付けられ、同好の大名や旗本が多く集まった。その中心メンバーの一人に富山藩主前田利保がいる。赭鞭会開かれた時期、斉清は眼病のため視力をほとんど失っていた。
文政2年(1819)、蘭学者で藩士の安部龍平(福岡糟屋郡名島の百姓の子で福岡藩士安部家の養子となっている)を直礼城代組に抜擢し、長崎詰役とした。斉清は文政年間にしばしば長崎出島を訪れている。平戸九代藩主の松浦静山は『甲子夜話』に、斉清が文政11年(1828)3月5日に後継ぎ黒田長溥(ながひろ)を連れて出島に入り、シーボルトの部屋に半日がかり滞在してシーボルトとの対話したことを書き残している。文政10年(1827)には安部龍平の蘭学の師である志築忠雄(しづきただお)が口述訳した『二国会盟録』(ネルチンス条約締結の過程をのべたもの)を亀井昭陽の序文をつけ提出させた。また、長溥自身も斉清にしたがい長崎オランダ商館を訪れ、シーボルトに会ったことについて、斉清が植物学に親しみ、長崎巡見の際には必ずシーボルトに面会して様々な問答を行っていたと、談話を残している。これらの問答を安部龍平に編集させ『下問雑載(かもんざつさい)』にまとめさせた。文政12年以降は長崎警固を養子長溥にあたらせた。天保2年(1831),安部龍平に自身の海防論を纏めた書、『海寇窃策(かいこうせっさく)』を編纂・補完させている。天保5年(1834)11月6日、隠居し、養子長溥に家督を譲った。

香椎宮を奉拝した大宰帥大伴旅人

香椎宮(廟)は古くから朝廷の崇敬厚く、祈願・奉幣等は宇佐神宮に次ぐ扱いを受け、伊勢神宮、気比神宮、石清水八幡宮と共に本朝四所と称された。
大伴旅人は神亀年間(724年―729年)に大宰帥(そち)として、大宰府に赴任し、筑前国主山上憶良(やまのうえのおくら)とともに筑紫歌壇を形成している。神亀5年(728)3月頃小野老(おゆ)が大宰大弐として着任、これを祝う宴(梅花の宴)が開かれている。
神亀5年11月、太宰帥大伴旅人(たびと)、大宰大弐小野老(おののおゆ)、豊前守宇努首男(うののおびとをひと)の三人は隼人(はやと)の乱を平げた功労者であり、この年は見事な御社殿が御造営成って四年目。11月6日の仲哀天皇の御祭(古宮祭)への参詣のため、(「香椎宮御由緒」)香椎宮へ参拝し、その帰り香椎潟に駒を止めてそれぞれ歌を詠んでいる。その三首の歌を万葉仮名で碑が刻まれている。明治21年(1888)、内大臣三条実美の揮豪で、総理大臣廣田弘毅の父親である石工廣田徳右衛門が刻んだ、「香椎潟万葉歌碑」が香椎宮頓宮の境内(坂道を上がった左手)に建っている。
この三首は『万葉集』(巻6・957~959)に
冬十一月、大宰の官人等、香椎の廟を拝み奉り、訖(を)へて、退(まか)り帰(かへ)りし時、馬を香椎の浦に駐(とど)めて、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌とある。
帥大伴卿
「いざ子ども 香椎の潟に白妙の 袖さえぬれて 朝菜摘みてむ」(巻6-957)
大弐小野老朝臣
「時っ風 吹くべくなりぬ 香椎潟潮干の浦に 玉藻刈りてむ」(巻6-958)
豊前守宇努首男人
「往き還り 常にわが見し香椎潟 明日ゆ後には 見む縁も無し」(巻6-959)
昭和初期までは、この丘のふもとまで波が打ち寄せ、丘上からは、まだ潮干狩りのできる遠浅の磯浜を見渡すことができた。  (「歌碑掲示板」)

2013.07.08受信
御飯ノ山城(老の山城)

老の山城は、立花城のほぼ南約3kmのところにある標高90mの老の山(城の腰山ともいう)の山頂に築かれた山城です。史料によると、『筑前国続風土記』(貝原益軒)の中で「御飯(おい)の山古城」とし「香椎宮の東北、御飯の水(不老水)の上にある山なり。大友の臣一万田弾正か籠りし所と云。立花の端城なりと云。」と記され、又、『筑前国続風土記拾遺』(青柳種信)の中で「老の山古城」とし「香椎宮の東北、大宮司か宅(武内屋敷)の上の山也。峰二ツ有。東の高峰に平地二反許有。城ノ腰と云。東ノ谷を御倉(おくら)谷と云。南麓に隍(ほり)の址有。北の谷を笠懸(かさがけ)といふ。西の山下に里城の址有。」と記されています。この老の山城跡や南麓の谷一帯は「香椎B遺跡」に含まれた地域で、平成7(1995)年から10(1998)年3月まで福岡市教育委員会によって発掘調査が行われ、10世紀から15世紀前半までの溝で区画された屋敷、寺、墓などからなる町並みが検出され、当時の人たちが使っていた品々が大量に出土しています。これらの出土より、約700年前には城の原形があったようにおもわれますが、築城者については確かなことは判りません。香椎宮一体に影響力を持った人が築き、以後は立花城の出城として使われたと思われます。『古代・中世の香椎上巻』に「700年ほど前というと、蒙古襲来に際しての物見の場が設けられたものが、山城へ発展していったのではないかと考えられる。」とあります。こうしてこの山城は対外的な防衛拠点として博多湾東部ににらみをきかしていたものと思われ、それがのちに大友氏の筑前での防衛の拠点として機能していたが、手狭になり、規模の大きな立花城が築かれたことから、その出城になったと思われます。と記されています。
現在の福岡市東区香椎台5-10の「おいの山公園」一帯がそれにあたります。

香椎宮貞明皇后行啓異聞

勅祭社香椎宮は史によると、勅使奉幣使が参向されたのは聖武天皇天平9(737)年から、平安、鎌倉時代を経て吉野時代、後醍醐天皇元応3(1321)年までに60余回で、以後は天下穏やかでなくなり、奉幣礼も絶えました。440余年後櫻町天皇、延享元年(1744)八代将軍吉宗になって、昔を偲ばれて勅使参向再興がなされました。以後61年目の甲子の年に奉幣されることに定められました。依ってそれ以降は光格天皇、文化元年(1804)甲子、3回目は孝明天皇、元治元年(1864)甲子に行なわれています。次の甲子の年は大正13年(1924)に当たり、その年を心待ちにしていた当宮では、皇后陛下の御使差遣、続いて皇后御親拝の事が報じられました。即ち大正10(1921)年皇太子裕仁(ひろひと)親王(昭和天皇)が海外御巡遊の途に上らせられることになり、皇后陛下(貞明皇后)は同年2月27日、特に御使三條男爵を差遣されて、殿下御外遊安全の御祈願をなされ、次いで御帰朝の後、同年9月14日更に御報賽の御使として同男爵を遣わされましたが、大正11(1922)年3月21日には、かしこくも皇后御親拝、金色燈籠二個の御奉納をされました。次いで大正13(1924)年甲子の参向もあり、「大正十三年五月二十九日付兵第一六〇五号を以て照会の官幣大社香椎宮に勅使参向の件、本年度より毎十年に勅使を参向せしめらるる旨仰出され候。」(『香椎宮文書』)とある。この年以後は宇佐神宮と共に、10年目勅使派遣のことが新しく仰せ出されましたが、特別に昭和19(1944)年10月並びに翌20(1945)年8月に奉幣使の参向がありました。「昭和26(1951)10月には天皇陛下並びに秩父宮、高松宮、三笠宮、三殿下より、貞明皇后の御遺品、銀御紋章附莨箱を下賜せられました。」(『香椎町誌』)
貞明皇后が香椎宮に御親拝された3年前、大正8(1919)年6月10日に、皇太子(昭和天皇)親王と久邇宮(くにのみや)家の長女良子(ながこ)女王との婚約が成立しましたが、翌年、良子女王(のちの香淳皇后)の母方の島津家に色覚異常の血統があることが判明し、家系に色盲の遺伝があるとして、元老・山縣有朋らが女王及び同宮家に婚約辞退をせまった事件(「宮中某重大事件」)がおきています。久邇宮家はこれに強く反発し、また東宮御学問所御用掛杉浦重剛(しげたけ)らは婚約取消しは人倫に反するとし、山縣が皇室の慶事に干渉したことを激しく非難されました。これは、宮中での薩長両派の勢力争いや、玄洋社、頭山満など国粋主義の人間が同調したり、山縣攻撃等も加わって、政治問題に発展し、結局、大正10(1921)年2月、宮内省から皇太子妃内定に変更はない旨が発表されて問題は解決しました。この事件で山縣の権威は大きく失墜し、一度は元老と爵位返上の意向も伝えられましたが慰留されています。
その後3月には皇太子訪欧。民間人、頭山満は皇太子成婚の饗宴に招かねていますし、日本の政界においても特異な地位を築いています。

宗祇の見た香椎宮

室町時代、山口を拠点にした守護大名大内政弘(まさひろ)の招きで連歌の大家・飯尾宗祇(いいおそうぎ)が文明12(1480)年6月から翌13(1481)年春ごろまでの約10か月間、山口に滞在していたが、政弘が治めていた筑前国の名所(歌枕)を訪ねる旅を、文明12年9月6日に山口を出発、大宰府や筥崎、志賀島、香椎などを巡り、10月12日山口へ帰っています。その36日間のことを記したのが『筑紫道記(つくしみちのき)』です。時に宗祇60歳の時でした。11年の長きに及んだ応仁・文明の乱が終わり、豊前・筑前両国を平定した大内氏領国の平和をことほぐ紀行文になっています。この旅のなかで当時の博多の様子を活写していますし、各地の名所風景、神社仏閣の様子のほか、宗祇の平和観、文学観、人生観や時には政治への発言なども記されています。
宗祇は、文明12年9月6日に山口を出発し、長門の豊浦(とよら)・赤間関(あかまがせき)から九州の若松に上陸、芦屋・小屋瀬を経て、9月16日に大宰府天満宮に到着しています。9月20日には大宰府より博多に到着し、浄土宗竜宮寺を宿所にして、10日の間、博多の名所をめぐり、連歌会を行う日々を送っています。博多は、大船が入港し町屋が軒を争うほど繁栄していたと書き、志賀島に船で渡り、姪浜を過ぎ、生の松原に向かい、楼門の崩れた博多の住吉神社などを訪ね、その後、再建中の筥崎宮、仮殿の香椎宮を見て、山口への帰途についています。香椎宮を訪れたのは、10月3日のことです。香椎宮について書かれている内容を『古代・中世の香椎上巻』にて注解釈しています。文から推測すると、ずいぶんと香椎宮がさびれていたように思われる。「御殿は造営半ばにもならで・・・・」とあるが、香椎宮の本殿などが焼失したのは『香椎宮編年記』によれば、宗祇が訪れた11年前の文明元(1469)年11月7日のことで、将軍足利義政が造営を命じ、翌年の12月19日に造替式をもって遷宮したことになっている。当時の大宮司は三苫親宣であると編年記に記されている。「神司の者共、すさまじげにて物言ひ交すも哀なれば」とあるが、都振りに慣れ親しんでいた宗祇には、香椎の神官たちの立ち居振る舞いやことば(方言)が「すさまじげで哀れに」見えたり、聞こえたりしたのではないだろうか。「神の御祓(みそぎ)に」は『新古今和歌集』に収められた読み人知らずの歌のことで、綾杉だけが盛んに生い茂っているといっているが、綾杉は香椎四景の「祥端杉」とされ、古来香椎の神木として信仰を集めていた。
また宗祇は、香椎宮の祭神は聖母(大菩薩)と八幡(大菩薩)であり、同じ神であるのに香椎宮で聖母と号しているのを筥崎宮では神功皇后と申しているとし、神木も筥崎は松であると、両社を比較して書いている。筥崎宮を参拝したのは香椎宮参詣の前々日の10月1日のことで、神宮寺の勝楽寺に宿を取っているが、筥崎宮の社頭は神々しくて風情があるとし、神主の応対も良かったようだ。2日には、大内氏の家臣杉弘相も出席して連歌の会も催されている。香椎潟は博多湾の東部にあたるが、鎌倉時代の蒙古軍の退散にちなんでか、香椎四景では「降敵涛」とされている。「磯菜摘海士(つむあま)の子共」は『万葉集』にある大伴旅人の歌によっている。旧暦の10月とあって海辺には人影も見えなかったのであろう。以上が宗祇の見た香椎の風景であるが、当時の知識人の香椎観を窺い知ることができて興味深い。と結んでいます。


2013.07.01受信
名島城と妙見

博多湾名島には、かって小早川隆景が築いた名島城があり、その沖合いに妙見島という小島があり、名島から簡単に渡れていました。隆景が普請の陣頭指揮をしている所へ、神谷宗湛や嶋井宗室らが普請見舞いに酒や肴を進上し、妙見島の海岸で酒盛りを開いたといわれています。また、秀吉も島津征伐や朝鮮出兵などで九州入り、名島に来た時は、この島で茶遊会を開き、その時に使用した井戸の跡が今も存在しています。
妙見とは妙見菩薩のことです。密教系寺院では北極星、北斗七星を神格化して星祭(星供養)を催していましたが、通常は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ天部に分類されています。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者といい、妙見菩薩をその本尊とし北辰菩薩ともいわれます。この島を北の方角に望む、密教に関わりをもつ寺社は何処かと地図上を南下すると筥崎八幡宮が鎮座します。その関わりの度合いについては『筥崎宮神佛分離に関する調査(筑紫頼貞・報告)』や『筥崎八幡宮縁起・下巻』などでも理解できます。


小早川秀秋寄進の吊燈籠

筥崎宮の宝物館収蔵品の一つに六角型流金吊燈籠(るきんつりどうろう)があります。この燈籠は、昭和36年(1961)10月21日、福岡県有形文化財に指定されています。桃山時代後期の作品で、火袋の一辺約11㎝、高さ約44㎝と約47㎝のもので、金メッキの囲み銅版に連華文の透かし彫り模様などを配し、様々に加工された精巧な美術工芸品です。その笠には、低い方には「八幡筥崎宮宝前御寄進金燈炉二内奉為中納言様御祈念之也、願主筑前局 文禄四乙未年九月吉祥日 座主豪清敬白」とあり、高い方には「奉寄附筥崎八幡宮金燈籠二之内 慶長元年丙申臘月日 座主坊敬白 城州葛野郡西之七条住人 山口玄蕃頭豊臣宗永」とそれぞれ銘が入っています。
筥崎宮史によれば、中納言とあるのは小早川秀秋のことです。これは秀秋が養父隆景の名代として参詣し、併せて文禄の役武運御加護御礼を行った際奉納したものといわれています。文禄4年(1595)といえば、秀秋が小早川家に養子として入国した翌年のことです。当時隆景の所領は、筑前一国を主として筑後二郡(生葉、竹野)、肥前二郡(基肆、養父)、それに原田、宗像、麻生三氏を従属せしめた33万6千石でありました。小早川金吾秀秋は天正10年(1582)、木下家定(北政所の兄)の五男として誕生し、幼少から秀吉の妻寧々の手許で育てられ、天正19年、羽柴秀俊と名乗り亀山(丹波)10万石の領主となる。文禄2年若年にして権中納言従三位に上がり左衛門督に転じた。通称「金吾中納言」と呼ばれたのは、佐衛門佐を唐名で金吾というからです。

2013.06.14受信
香椎軍需品集積所

平成6年(1994)1月25日に公告された福岡市東部香椎副都心土地区画整理事業で再開発が進み、高層ビルが建ち、旧国鉄(現JR)香椎操車場跡地に広がる丘陵部一帯(北は香椎宮の神域を限りに、南は土井駅周辺まで伸びる)、この地域は旧日本軍の倉庫地帯であり、軍事のために必要な資材という軍需品を収納する一大倉庫群がここにありました。
昭和18年(1943)に「蒲田(若宮、舞松原、水谷一帯)に陸軍の「香椎軍需品集積所松原倉庫」が建設される。」(『松原の歴史 その群像』)とあります。また「昭和17年(1842)7月1日、博多臨港線が開通、香椎西部操作場、多々良信号所、新建設事務所、博多港駅が出来、博釜航路が開始され、18年12月、香椎西部前に松原軍需倉庫が出来て使用を開始、19年5月1日西鉄香椎線を省に買収、戦争末期の苦しい空襲下の輸送は益々激しくなった。」(『香椎町誌』)ことから博多港と直結する倉庫群といえます。また香椎から旧国鉄(現JR)香椎宇美線を通して土井駅から倉庫に引き込み線も引かれていました。この時期、現在の多々良中学校横から若宮小学校、八田小学校にいたる道路が整備されました。
この倉庫群は、若宮、舞松原には需品廠(しょう)の倉庫、土井には糧秣((りょうまつ)廠、衛生材料廠の倉庫がありました。正門は八田1丁目5と土井1丁目1の境、土井桃田交差点信号の北側で、すぐ左側に事務所があったそうです。昭和20年、多々良国民学校の高等科5,6年生が勤労動員で倉庫にはいり、掃除、朝鮮人兵士の監視を命じられたといわれています。正門から東は疲労回復酒、肉の缶詰、ウイスキー、タバコ、お菓子等 を収めた倉庫で、西は穀物倉庫で米や小麦粉などが積まれていたといいます。
終戦後、福岡では県知事を委員長とする進駐軍連絡委員会が組織され、進駐軍が必要とする建物や諸設備の調査を行い、受け入れを整えていたが先遣隊の到着と同時に、宿舎や病院などの接収物件について協議をおこなっていました。「9月30日に、第五海兵師団第二八連隊の第一陣約一千人が臨時列車で佐世保から香椎操車場に到着、陸軍軍需品倉庫の宿舎へと入ったのである。」(『福岡の歴史』市制九十周年記念)とあるように駐留しました。昭和24年(1949)には米軍が撤退し、この土地は食糧増産と自作農創設のため元耕作者と開墾希望者に払い下げられることとなりました。しかし土質が悪く、グリ石やコンクリートの破片などが混じり、耕地には不向きということで、区画整理事業を行い、住宅地などの地域開発の方向に進み、今日大団地に変貌しています。

香椎宮と漱石

秋立つや 千早ふる世の杉ありて

香椎宮、楼門から境内を奥に入っていくと、拝殿に上がる中門の下、石段の所に注連縄(しめなわ)と朱色の柵でかこまれた大きな「綾杉」(神木)があり、その側に冒頭の句と「ちはやふる香椎の宮のあや杉は神のみそきにたてるなりけり」(新古今和歌集)の歌板が立つています。
これは、夏目漱石が妻鏡子を伴ない新婚旅行に筥崎宮へ参詣し、次に香椎宮に詣で、境内に茂っている綾杉を愛でながら、詠んだ句です。さて記録によると、漱石は博多に三度足を運んでいます。第一回目は、明治29年(1896)4月10日、松山尋常中学校から熊本の第五高等学校講師へ転任するため、11日に博多に泊まっています。翌12日は都府楼址、大宰府を見物し、「都府楼の瓦硯(かげん)洗うや春の水」と詠んでいます。第二回目は、明治29年9月4日より一週間鏡子を伴ない福岡にいた妻の叔父に当たる中根与吉を訪ね、北九州を旅行したとありますが、これが新婚旅行に当たります。筥崎宮へ参詣するのに千代の松原といわれた東公園の中を通って行ったようです。「初秋の千本の松動きけり」が詠まれています。次は前述の香椎宮に詣でています。その夜の博多泊まりは二人して、春吉の旅館でした。ここでは「行く秋や博多の帯の解け易き」と感傷と、愛しさを込めて詠っています。続けて二日市温泉に一泊し、「温泉の町や踊ると見えてさんざめく」と詠んでいます。第三回目は、英語教育の視察及び指導の目的を以って明治30年(1897)11月9日、当時大名町堀端にあった福岡県立尋常中学校修猷館へ、公務として来ています。
やがて洋行。そして帰国するや教師生活に別れを告げ、明治38年(1905)より『吾輩は猫である』を皮切りに、作家生活へと入っていきました。

香椎宮、楼門から境内を奥に入っていくと、拝殿に上がる中門の下、石段の所に注連縄(しめなわ)と朱色の柵でかこまれた大きな「綾杉」(神木)があります。その側に自然石の碑が建っており、金色で浮き出るような感じの文字が記されています。碑は表に「千早振香椎のみやの綾杉は神迺(の)みそきにたてる也けり」と、裏に「明治十一年春日 陸軍大将二品親王熾仁書」とあり、朱の角印が二個押してあります。『香椎宮続編年記』によれば、「明治十四年(一八八一)辛乙五月三十一日神木綾杉ノ古歌ヲ彫刻セラル石碑一基ヲ当郡湊村堺萬七造献。本日落成ス。書ハ陸軍大将二品熾仁親王ニテ宮司倉八隣ノ請願ニヨリ揮毫アラセラレタルモノナリ」と記されており、福岡に在地された縁により宮司の依頼で御宸筆されたのを碑に刻したものです。
陸軍大将二品親王熾仁とは有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)です。熾仁親王は明治四年(1871)から福岡藩知事(後に初代福岡県知事・県令)を勤められています。明治十年(1877)の西南戦争では鹿児島県逆徒征討総督に就任し、西南戦争における功により同年10月10日に隆盛に次いで史上2人目の陸軍大将に任命されています。「みそ木」は神像を造る木です。香椎宮のあや杉は神のみそ木として立っています。


2013.03.23受信
女城主立花誾千代(ぎんちよ)

父は豊後の大友宗麟(そうりん)の有力重臣(加判衆)で、立花城の城督(じょうとく)として筑前支配を任された戸次鑑連(べっきあきつら)(立花道雪)。誾千代は1人娘として永禄12年(1569)8月に筑後国山本郡(現久留米市草野)の問本(といもと)城にて誕生する。名前に含まれる「誾」の字は“慎み人の話を聞く”という意味合いを含めて肥前の僧侶、増吟が名付けたという。
鑑連(あきつら)は、問本城で、問註所鑑豊(もんちゅうしょあきとよ)(生葉(浮羽)郡長岩城主)の娘西(仁志とも書く)姫と祝言を挙げた。『豊前覚書』)
一方、再婚の西は先夫安武鎮則と離別し、男女二人の子持ちだったが、子連れの条件をのんで彼女と再婚をしている。男子は、のちに筥崎座主となる方清法印である。
男子のいない高齢の道雪に、宗麟は当初、実家の戸次(べっき)家から養子を迎えて城督を譲るよう求めていたことが、天正3年(1575)5月10日付の書状からうかがえる。ところが道雪は5月28日付の譲状(証書)で誾千代を後継者に定めている。宗麟も6月18日の書状で承認していることがわかります。その譲状によれば、道雪は「御城督并(ならび)に御城領」とともに、城内の武具一式、鉛千斤(きん)、銀子(ぎんす)十貫目、米千石などの一切を娘に譲っている。ただ、このとき誾千代はわずか7歳。「道雪は形だけ娘に継がせて実権を握り続けた。養子を迎えて家臣団が分裂するのを恐れたのではないかと」思われる。名実ともに道雪を継いだのは、6年後に婿に入った宗茂(戸次統虎(むねとら)改め)だった。
永禄5年(1562)5月、義鎮は剃髪して「宗麟(そうりん)」と号し、この時、宗麟の重臣たち三十数人が一緒に頭を丸めたという。戸次鑑連も主人の宗麟にならって髪を剃り、「麟伯軒(りんぱくけん)」と号するようになる。「伯」は、伯耆守(ほうきのかみ)の官名に由来すると思われるが、数年後にはさらに「道雪」と名乗っている。道に降り積もった雪がいつまでも所を変えずに消え残っている様を、潔白な武士の節操にたとえて付けたといわれる。このように鑑連は、「麟伯軒道雪」と称する。
誾千代は宗茂との間に子もなく慶長7年(1602)に34歳で没した。だが立花家が公式には初代を道雪、2代を宗茂としたため、やがて誾千代は忘れられた存在となっているが、18世紀の藩史編纂の過程で、誾千代の顕彰が始まった。関ヶ原の戦い(1600年)のとき柳川で誾千代が鎧に長刀(なぎなた)姿で女武者を指揮したとか、これを加藤清正が恐れ行軍ルートを変更したとかいった逸話を収める年譜や伝記が編まれた。1826年には、道雪、誾千代、宗茂を祭る三柱(みはしら)神社が藩によって造営された。立花家の継承者としての宗茂の正統性を担保するためには、道雪との間をつなぐ誾千代の存在が欠かせないとみられたからだろう。
2013,3,9読売新聞「誾千代の生涯 史料でたどる」

2013.03.18受信
香椎宮の荘園化

保延6年(1140)、大宰府の大山寺・香椎・筥崎の僧徒神人等が宰府以下の屋舎数十家を焼払うという事件が起っている。恐らく大宰府と香椎・筥崎との貿易の利害関係によるものであろうと思われる。時の大宰権帥顕家がこれを朝廷に訴え、この暴挙を誡めるため、香椎、筥崎の両社を大宰府に付けられた。つまり、両社の社領を大宰府領に組み入れ、その管轄下に置かれたのである。このとき、筥崎宮検校、石清水八幡宮別当任清は、筥崎宮の執行を罷免され、のち筥崎宮は石清水社に返付されたが、香椎宮は府領のままであった。
仁安元年(1166)に清盛異母弟平頼盛が大宰大弐として赴任した。頼盛は平貞盛の五男で、母は池禅尼。仁安元年大宰大弐、治承2年(1180)正二位、寿永2年(1183)権大納言にすすみ、その住居を池殿とよび、池大納言と称されている。この大宰大弐在任中、大宰府領となっていた香椎社領を、みだりに、京都蓮華王院領に寄進し、自らは香椎宮の領家の地位を獲得している。蓮華王院は、後白河法皇の発願により、平清盛が造進した寺である。そこで、頼盛は、香椎社領の支配者となった。
寿永3年(1184)平家一門の没落により、頼盛の所領はすべて没官領となったが、源頼朝は、池禅尼に命を助けられた旧恩をおもい、頼盛を厚遇した。頼朝のとりなしで、後白河法皇の裁許を得て、その所領(香椎荘以下17か所の荘園)は安堵され、再び香椎宮の領家となった。文治元年(1185)頼盛は剃髪して仏門に入るが、『元享釈書』栄西伝には、「門下侍郎平頼盛」とあって、頼盛が栄西に帰依し、その得度の師であったことがわかる。その栄西は仁安3年(1168)入宋、同年帰国と文治3年(1187)入宋1191年帰国の両度にわたり、平頼盛が栄西の旦那であって、入宋時には援助したといわれている。頼盛の死後(文治2年)、香椎宮領は後白河法皇領となり、更に後白河法皇死後の建久3年(1192)には再び大宰府領となり、建久8年(1197)には石清水八幡領となっており、南北朝後期まで石清水八幡宮の荘園制的支配が続いている。

2013.03.08受信
曹洞宗昌光山宗勝寺

福岡市東区下原5丁目、高節(たかふし)山の麓に伽藍を構えている。『筑前国続風土記』によれば、宗勝寺ははじめ真福寺という小寺であった。この寺は浦宗勝の母の菩提寺として建立された。
浦宗勝は、大永7年(1527)、乃美賢勝の子として生まれる。父は浦元安の養子であったが、元々の乃美(のみ)氏を名乗ていたため、宗勝も乃美氏を称し、小早川隆景に仕えた。天文24年(1555)の厳島の戦いでは村上水軍を味方に引き入れ、この時、毛利元就の「一日だけ軍船をお借りしたい」という言葉を伝え、宗勝は村上水軍を味方に入れ、厳島の戦いに勝利した。その後も隆景に従い、小早川水軍の主力として各地で活動する。毛利氏が九州に進出するとそれに従い、永禄4年(1581)の門司城攻防戦で敵前に上陸する。筑前国博多の支配権奪取を目論む毛利元就は九州侵攻を継続し、その前哨戦となった毛利氏の伊予出兵でも主力として活躍する。永禄12年(1569)の立花山城攻防戦でも活躍する。立花山城攻略後はその城代となり、筑前防衛として行動した。降伏した大友軍の将兵を丁重に志賀島の敵陣に送り届けた。これに対抗して大友宗麟は毛利家の本国山口に仕掛けたので、毛利軍は宗勝以下わずかの兵を残して退却した。味方の撤収を見届けた宗勝は、降伏勧告を受け入れて、開城した。大友軍は浦たち毛利残留兵を芦屋まで送り、本国に帰還させた。その後秀吉の九州平定後、小早川隆景は筑前名島城に入る。その時宗勝は立花城代(2万8千石)を命じられた。(1587年)、1592年9月(関ヶ原の8年前)に病没。真福寺という寺に葬られたが、隆景は寺の名前を宗勝寺と改めさせ、寺領20石を寄進した。
なお、福岡市は2012年度の市指定文化財に、「宗勝寺資料」を指定した。この宗勝寺の資料は寺を創設した乃美宗勝(のみむねかつ)に関わる13点。寺には約250年前に描かれた乃美の肖像画や、仕えていた小早川隆景が寺に送った書状などが残されている。市は「江戸時代より古い文書や、肖像画は貴重」としている。

2013.03.03受信
筑前の地誌に『筑前国続風土記』、『筑前国続風土記附録』、『筑前国続風土記拾遺』の3部作がある。
『筑前国続風土記』は貝原益軒の編纂によるもの。『筑前国続風土記附録』は藩士・加藤一純が藩命を受け編纂に取りかかるが、病没し、記録助手として編纂にかかわっていた青柳種信が完成した。また、種信は、『筑前国続風土記附録』を補う『筑前国続風土記拾遺』をその後著した。

筑前国続風土記附録巻之(三十六)
裏糟屋郡上   此郡のおもむき本編(四一六)に詳也。
〔濱男村〕
  古への香椎潟也。小早川秋秀郷の時に初て人家を建られしと云。香椎村の
枝村也しか今ハ別村と成れり。當郡青柳駅より箱崎へ至る官道に人家有。村
の南の口に濱男大明神社有。香椎村の内也。産神ハ香椎宮也。
(昔は香椎潟でした。小早川秋秀郷が支配していた時に初めて人家を建てられたといわ
れています。香椎村の枝村でしたが今は(独立して)別村になりました。当郡(粕屋
郡)青柳駅より箱崎に至る官道に人家があります。村の南の入り口に浜男大明神社が
あります。土地を守る神社は香椎宮です。)
〔濱男大明神社〕
神廟の西七町餘、濱男町に続ける所にあり。香椎村の境地也。本編(四二
七)に見ゆ。社地に榎木二樹有。
(神社の西763メートル余りの所にあります。浜男町に続く所にあります。香
 椎村の境の場所です。本編(四二七)に書いてあります。境内に榎の木が二本
あります。)
〔冑塚〕
人家の東北一町斗に在。神后冑を着給ひし所とも云。又御冑を埋給経所
  とも云フ。塚の周三十間斗有。享保の頃此塚にて大石の兜形したるを堀出
せり。其性松化石の如し。博多の医師萩野某か石を運ひ取て墓石とせしか、
神祟有て挙家悉く急病を得て死亡せり。文化元年の夏博多の市人等かの石
を再ひ持来りて海辺にかへし置り。今に磯辺に在。
(人家の東北約109メートルの所にあります。神功皇后が冑をつけられたとも、
また、冑を埋められた所ともいわれています。塚の周囲約54メートルあります。
享保の頃、この塚で兜の形をした大きな石をほりだしました。それは松の化石の
ようでした。博多の医師で萩野某(なにがし)という人が石を運んでいって墓石し
ましたところ、神様の祟(たた)りがあって、家中の者がことごとく急病となって、
死亡しました。1804年の夏、博多の人たちなどが、この石を再び持って行って
海辺返しました。今でも磯辺にあります。
〔鎧坂〕
冑塚の西に在。是又本編に委敷見へたり。此坂を下馬坂とも云。爰を通る
者必下馬する也。
(甲坂(よろいざか)冑塚の西にあります。これもまた本編に詳しく書いてあります。
この坂を下馬坂ともいいます。ここを通る人は必ず馬から下ります。)
〔馘塚〕
人家の東南の丘山に在。古へハ大なる塚なりしを延享年中村民畑を開かん
  とて穿出たる事なと本編に見へたり。今ハ纔に周八間あり。石祠を建て地
  蔵と崇む。新羅人の馘を埋めたる所と云フ。
(馘塚(きりみみづか)人家の東南の俗世間を離れた土地にあります。昔は大きな
 塚でしたが、1744年~1748年に村の人が畑を開こうとして掘ると出てき
 たことなどが本編に書いてあります。今はわずかに周囲が14,4メートルに
なっています。石の祠を建て、地蔵と尊び敬いました。新羅の人の馘を埋めた
所といわれています。)
〔下原村〕
馬立谷本村 名切 土井 向原 秋山谷 秋山町馬立谷ハ立花山の西梺
  也。城主の馬を繋し所と云。凡立花古城地産神は大半ハ此村の境内也。詳
  ニ立花村の所に記す。香椎宮也。
  (馬立谷(本村)名切 土井 向原 秋山谷 秋山町 馬立谷は立花山の西の麓
   にあります。城主の馬をつないだ所といわれています。おおよそ立花の古い城
   があった場所の大半はこの村の区域内です。詳しいことは立花村の所に書きます。
土地を守る神は香椎宮です。)
〔唐原村〕
上村 下村 琵琶橋 初ハ下原と同村也。香椎宮を産神とす。下村の
辺に塚二ツあり。地名を塚の元と云。其辺に塔の元と云も有。是村名の
起る処なるへし。由来ㇾ不詳。作出の人家の入口に石橋有。里民琵琶橋
と云。故に地名とも云り。祇園社下村社後に出水有。故に井の本と云フ。
境内に地蔵石佛あり。地蔵高藤近辺に古墓有。里氏ハ地主と云り。
  (上村 下村 琵琶橋(びわはし) 初めは下原と同村でした。香椎宮を土地の
守り神としています。下村のあたりに塚が二つあります。地名を『塚の元』と
いいます。その近くに『塔の元』という場所もあります。これが村の名の元と
なった場所なのでしょう。なんの塔かよくわかりません。作出という場所の人
家の入り口に石橋があります。そこに住んでいる人は琵琶橋といっています。で
すからこれは地名でもあります。祇園社は下村にあります。社の後に水が出て
います。ですから『井の本』といいます。境内に地蔵菩薩の石の仏があります。
地蔵は高藤にあります。近くに古い墓があります。住んでいる人は土地の主と
いっています。)


2013.02.11受信
名島周辺古地名。小字

地形から読む『筑前の古地名・小字』池田善朗(著)より名島周辺の地名の用語解説を抜きだすと、
【妙見島】(ミョウケンジマ)
妙見とは妙見菩薩のこと。平安時代、密教系寺院では北極星、北斗七星を
神格化して星祭(星供養会)を催していたが、妙見菩薩をその本尊とし北辰
菩薩とも別称した。そこでこの島を北の方角に望む、密教に関わりをもつ寺
社は何かと、地図上を南下すると筥崎八幡宮が鎮座。その関わりの度合につ
いては『筥崎宮神佛分離に関する調査(報告・筑紫頼定)』や『筥崎八幡宮縁
起・下巻(室町期社頭図)』などでも理解できる。
因みに、吉塚妙見の地名は近くの千代ノ森神社がその発祥と思われる。境内
  に、北辰社が末社として鎮座し、その位置は妙見島のほぼ南に在る。また筥崎
  宮仲秋祭(放生会)の御神幸行列は当社の前を通り吉塚本町を経て箱崎へ戻る。
  いわば、千代ノ松原(社領)の南端を確かめるルートではなかと思われる。
【名島】(ナデ・マ、ナジマ)
語源は撫(ナ)デ・間(マ)。松崎から延びた丘陵が弧を描いて、先端に名島
神社が鎮座する黒(クロ)(畔)崎に達している。手を挿し入れて抉(えぐ)り
取ったように、つまり撫で廻したように湾岸流で海食され崖地となって現在の
地形ができた。『海東諸国紀』の室町中期の応仁2年(1468)記事に「名島」
の地名が見える。
【松崎】(マス・サキ、マツザキ)
語源は真洲(マス)・崎(サキ)。原義は砂洲の拡がる処。『和名抄』では沙を
マスと読ませている。マスサキが訛ったマッザキの語音に佳字の松崎を当てたた
め他郷の人たちはマツザキと呼ぶ。
【多々良】(タタ(フ)・ラ、タタラ)
語源は湛(タタ)(フ)・処(ラ)。原義は川を湛える処。河口が湖水のように
拡がる地形を呼称。往古、多々良川は土井、八田へかけて蛇行し、この近辺で
川尻が大きく口を広げた地形だったようだ。ラはソコラ、ココラ、コチラ、など
のように場所を意味する語につく接尾語。古代のタタラ製鉄を由来とするのが、通
説となっているようだが、タタラを全て古代の製鉄場跡というには少しむずかしい。
【八田】(ハル・タ、ハッタ)
語源は墾(ハル)・処(タ)。ハッタと訛化。開墾地のことで、往昔、張田村と
表記がある。また、『香椎宮史』(天文11年(1542))に新(ニイ)張村の
表記がある。開墾地をハルと呼び(『名義抄』)、律令初期は墾、八世紀後半以降
は治、中世期は原を当てた。タは方向、場所、部分、位置などを意味する語につ
く接尾語。タの語音に田を当てるのは、米がとれる願望の意で好字、佳字として。
旧八田村の小字には浦の地名が目立つ。地形的に丘陵の裾がシワが寄ったように
ヒダになって深く浅く入っている。この入り込んだ処をウラと称し同じ音の漢字、
浦を当てたもので、海水が入ってきていたのではない。
【蒲田】(カム・マ・タ、カマタ)
語源は噛(カ)ム・間(マ)・処(タ)。原義は久原川が高地の裾を噛ムように
ぶつかる処。タは場所、方向などを意味する語につく接尾語。東京大田区蒲田も
高台の裾を呑川が蛇行し、少し離れた西側を多摩川が流れている。
平成13年1月13日、粕屋町教育委員会によって江辻遺跡発掘説明会が催され
た。「加麻又郡」と陰刻した須惠器の破片は八世紀頃のものという。『和名抄』に
記載がないのでそれ以前の地名だろうとのこと。カムマタがカマタに訛する過程
を実証したものと考える。発掘地は福岡市東区蒲田に隣接する。旧河道、水田跡
が検出されているので、一帯は湿地帯だったと思われる。
【名子】(ナゴ(ム)、ナゴ)
語源は和(ナゴ)(ム)。原義は久原川が氾濫した後の土地(堆積地)が安定した
状態の地形を呼称。「土地条件図・福岡」によると、猪野川の旧河道が大きく蛇行
して本村一帯は氾濫原となっている。押し流された土砂が堆積して二つの微高地(
自然堤防)を作った。名子の集落は土地の安定(和ム)を待って人々が住み始めた
のではないか。『慶長石高帳』(慶長7年)に村名が見える。『香椎宮史』には永正
8年(1511)の記事に「奈古」と表記されている。

正月と餅
師走に入り寒さを迎える下旬には、新しい年を迎えるための正月の準備が始まります。そこで、正月の行事について、餅との関係を見てみます。
正月に餅を食べる慣わしは、中国で元旦に堅い飴を食べる習慣にあやかって、宮中で「歯固め」の儀式として始まったことに由来すると言います。餅は神様に捧げる神聖な食べ物と考えていたが、室町時代から正月に年神様に供える目的で、現在のような鏡餅が定着しています。大小二つに重ねるのは月(陰)と日(陽)を表し、福徳が重なって縁起が良いと考えられたといいます。
正月には、まず「雑煮」を食べるが、本来「雑煮」は年神様に併えた餅を神棚から下ろし、それを野菜や鶏肉、魚介などで煮込んで作った料理で、「雑に餅」とも言われた。「雑煮」は本来正月ではなく、室町時代頃の儀礼的な酒宴などで出されたのが正月料理になったということです。
1月11日は、正月に供えた鏡餅を下ろして鏡開きをします。雑煮や鏡開きは、神霊が刃物を嫌うため、包丁を使わずに手や木槌などで鏡餅を割り、雑煮や汁粉にして、主君と家来たちが揃って食べ、商家でも主人と従者達、さらには家族も加わって一緒に食べたということで、どちらの場合にも家族や主従の親密さを深めることに意味があったと思われます。
小正月の1月15日の前後に行われる火祭りを「左義長(さぎちょう)」といい「どんと焼き」とも呼ばれています。この日には、正月に飾った門松やしめ飾りを神社や寺院の境内などに持ち寄って燃やす、いわば正月飾りの後始末であるが、燃やすときの煙に乗って新年に訪れた歳徳神が天上に帰って行くと信じられていました。その時に、棒の先に餅・芋・団子などを刺し焼いて食べると年は無病息災であると信じられていました。「左義長」と呼ばれるのは、平安時代の宮中で三毬杖(さぎちょう)と呼ばれる青竹を立てて正月の飾り物を燃やしたことに由来するという説や、鳥追い行事の鷺鳥(さぎちょう)からきたことにあるとの説があります。


参考  『日本人のしきたり』  板倉晴武より

香椎宮奉納獅子楽
福岡県無形文化財(昭和36年(1961)10月21日指定)、香椎宮奉納獅子楽は、香椎宮の氏子で構成する獅子楽社が、毎年4月、10月の春秋の香椎宮大祭に天下泰平、国家安全、万民豊楽、家内安全を願って奉納している獅子楽です。起源は、香椎宮の記録(『香椎宮続編年記』)によると、延享元年(1744)の勅使参向の年に廃絶していた旧来の祭祀を復興し、2月、4月、9月、11月の祭日に獅子楽を奏した旨の記載が見え、現在使用している大太鼓の胴内側にも寛政10年(1798)午ノ2月吉日に楽太鼓、獅子一双奉寄進の墨書銘が確認でき、江戸中期から行われていたことがわかります。
獅子楽の構成は、2人立ち雌雄の2頭の獅子舞と、大太鼓・小太鼓・笛・銅拍子の囃子方から成り、演目の構成が、デハ(序)・ナカノキリ(破)・キリ(急)の三通りで、雌雄の出会いから、意識し合い、求愛までを演じる愛らしい舞で、決して獅子舞とは言わず、雅楽のひとつとして伝承され「獅子楽」と呼ばれています。
昭和23年(1948)第3回国民体育大会が福岡市で開催されたのを機会に、当地観光協会森信夫氏が博多人形の権威小島与一氏に依頼して、この由緒深い「獅子楽」の獅子頭の陰陽を土鈴に考案しました。土鈴は赤と緑の対。裏には「与一」とともに「香椎」の文字が焼込んであります。このことを西日本新聞に「土鈴も作った与一さん」「博多人形だけじゃなかった〃」「昭和23年国体の観光土産用」と掲載されています。また、『香椎町誌』には郷土玩具の項に(イ)香椎の獅子鈴(P305)の記載があります。

香椎宮を奉拝した大宰帥大伴旅人
香椎宮(廟)は古くから朝廷の崇敬厚く、祈願・奉幣等は宇佐神宮に次ぐ扱いを受け、伊勢神宮、気比神宮、石清水八幡宮と共に本朝四所と称された。
大伴旅人は神亀年間(724年―729年)に大宰帥(そち)として、大宰府に赴任し、筑前国主山上憶良(やまのうえのおくら)とともに筑紫歌壇を形成している。神亀5年(728)3月頃小野老(おゆ)が大宰大弐として着任、これを祝う宴(梅花の宴)が開かれている。
神亀5年11月、太宰帥大伴旅人(たびと)、大宰大弐小野老(おののおゆ)、豊前守宇努首男(うののおびとをひと)の三人は隼人(はやと)の乱を平げた功労者であり、この年は見事な御社殿が御造営成って四年目。11月6日の仲哀天皇の御祭(古宮祭)への参詣のため、(「香椎宮御由緒」)香椎宮へ参拝し、その帰り香椎潟に駒を止めてそれぞれ歌を詠んでいる。その三首の歌を万葉仮名で碑が刻まれている。明治21年(1888)、内大臣三条実美の揮豪で、総理大臣廣田弘毅の父親である石工廣田徳右衛門が刻んだ、「香椎潟万葉歌碑」が香椎宮頓宮の境内(坂道を上がった左手)に建っている。
この三首は『万葉集』(巻6・957~959)に
冬十一月、大宰の官人等、香椎の廟を拝み奉り、訖(を)へて、退(まか)り帰(かへ)りし時、馬を香椎の浦に駐(とど)めて、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌とある。
帥大伴卿
「いざ子ども 香椎の潟に白妙の 袖さえぬれて 朝菜摘みてむ」(巻6-957)
大弐小野老朝臣
「時っ風 吹くべくなりぬ 香椎潟潮干の浦に 玉藻刈りてむ」(巻6-958)
豊前守宇努首男人
「往き還り 常にわが見し香椎潟 明日ゆ後には 見む縁も無し」(巻6-959)
昭和初期までは、この丘のふもとまで波が打ち寄せ、丘上からは、まだ潮干狩りのできる遠浅の磯浜を見渡すことができた。